五十嵐威暢さんへの追悼メッセージ
中谷 亜樹子
先生と初めてお会いしたのは10代の時。
多摩美の特別講義の授業でした。今より東京と地方の格差が大きかった時代に、北海道の滝川!出身の人が超一流デザイナーとしてデザイン界に君臨している姿は衝撃でした。凄い人がいるもんだ…。と、500人が聴講する中の一人の美大生として口をあけて聞いていたのを覚えています。
時が流れて、33歳の時。
札幌に戻ってきていた私は、札幌駅で偶然先生を見かけて悩んだ末に勇気を出して「多摩美卒業生です!先生の特別講義を聴いてました!」と突然声をかけたのが、今の先生との繋がりのスタートになりました。あれは、20年以上前の事になるのですね…。
勇気を出して声をかけた私、エライ!
仕事のトラブルで先生にご迷惑をかけた時に、赤坂のホテルのロビーで、「僕が今日この時間をとったのは、彼女だけを悪者にしたら許さないよ、と君たちに言いたかったからです。」と言って、全責任を押し付けようとしていた幹部に開口一番で制して守っていただいた時、泣きそうになりました。先生にあの時のお礼を言えないままで、すいません。若かりし頃の私は、五十嵐先生が庇ってくれた!と、とても感動しました。
葉山のアトリエに取材第一号で伺ったのは、私の自慢です!お昼を一緒に!と言われた時は、天にも昇る嬉しい時間でした!富士山と葉山の海を眺めながらのランチは格別でした!
「かぜのび」で、大型作品「ゆ・ふ・る・じ」設置の瞬間を家族でお手伝いできたのは、一生の思い出です。(掃除だけど)制作中の時のバリ取りも、子ども達にとって忘れられない楽しい貴重な時間でした。彼らの人生にとってかけがえのない宝物になったと親として感謝しております。
先生とご飯に行ったことは沢山あるけど、「ここも美味しいけど、やっぱり富美子の方が美味しいかな?」といつも奥様を褒められている姿は、最高にカッコ良かったです。素敵でした。先生がアイスクリームが大好きなところはチャーミングでした。
芸森での個展は、最高!でした。わが家族はきっと一番通いましたよ!
とにかく、思い出があり過ぎて…。だから、とても寂しいです。
先に逝かれている猪股先生、高味先生が、今頃は五十嵐先生を迎えてくれていると思いますが、久々にいろんな話を仲良く語り合っていることでしょう。
五十嵐先生、たくさんの素敵な時間をありがとうございました。
どうか、ゆっくりお休みください。いつか空の上で先生が去った後の話をできれば嬉しいです。
山崎 修
山崎石材工業株式会社 代表取締役
アルベールビル五輪モーグル日本代表
あのゆっくりと静かな口調、そして心に深く響くメッセージ。今もなお、鮮明に思い出されます。
五十嵐様が遺された作品、そして言葉は、これからも多くの人々の心に残り、生き続けることでしょう。
心よりご冥福をお祈りいたします。
大野重定
FINE STREAM 代表
哲学者?仙人?と見紛うような超越した佇まい。
心の奥底まで見透かされてしまうような澄んだ眼差し。
その眼差しにどぎまぎしながら話しかけると、
少年のような無垢な笑顔を向けてくださる。
こちらも自然と笑顔になり、子ども同士のような
ピュアな会話が生まれる。
五十嵐先生とお会いすると、いつもこうしたやり取りでした。
だから、五十嵐先生を思い浮かべると
僕はいつも笑顔になります。
僕がまだ北菓楼にいたときにご寄贈くださった石のベンチ「Friends」。
お披露目式の日、五十嵐先生や堀会長等とみんなでFriendsに座り、
楽しく笑い合ったあの時間は貴いものでした。
そんな記憶も内に抱きながら、
Friendsは今でも、北菓楼砂川本店ガーデンの、白樺の小道の前に
静かに優しく佇んでいます。
五十嵐先生にとって、自分以外の人たちはみんなFriendsだったのかもしれない。
そういう方だったような気がします。
五十嵐先生、いったんさようなら。
またいつかお会いいたしましょう。本当に、ありがとうございました。
吉川 剛
滝川ランタンフェスティバルのEL提供からはじまり、金沢工業大学の卒業証書エンブレムの制作協力と、さまざまなお仕事でご一緒させていただきました。
一度、葉山のアトリエにお邪魔したことがあり、聡明な語り口でいろいろと進行中のアート制作についてお話を聞いたことを、はっきりと思い出します。
立体文字のカレンダー作品は頻繁に見返している作品で、今後も作品を通し先生を偲ばせていただきます。
先生のご冥福をお祈りいたします。
株式会社ミクロ技術研究所 吉川 剛
熊田義信
縁とは、不思議なものですね。
国内のみならず国際的に活躍されている五十嵐先生が、収蔵庫を求めており縁があって新十津川町の吉野小学校を気に入ってくださり、収蔵庫のみならず、アトリエ、展示施設と夢は広がり、今の『かぜのび』が完成し、それからというもの町内の公共施設に作品を寄贈していただき、本物の芸術作品が身近なものになりました。
特に役場庁舎改築に合わせ、1Fロビーに町の基幹産業である農業が豊穣の秋を迎えられ続けることができることをイメージしたテラコッタは、町の大きな財産となりました。
応援大使を引き受けていただくなど町に対する貢献度については、枚挙にいとまはなく、厚く感謝とお礼を申し上げます。
これまで、大変お世話になりました。
ありがとうございました。
心より哀悼の意を表すると共に安らかにお眠りください。
伊坂重春
五十嵐先生が30年近く前、我事務所にいらした際、憧れの先生からサインを頂きました。先生はそのサインがお気に召さらず後日、差替えにいらっしゃいました。そのサインは今も大切な事務所の守神です。
先生の優しさ、作品、仕事への姿勢、その全ては私自身の道標です、、
感謝の念に耐えられずにおります、、
先生の作品は永遠に引き継がれていく事でしょう、、、、、合掌
佐藤卓
「アートは想い。デザインは想いやり。」
難しい言葉をつかうデザイナーが多い中、
五十嵐さんが言ったこの言葉は、誰にでもわかりやすく
見事にアートとデザインの違いを言い当てていると思います。
私はこの言葉を五十嵐さんのお名前と共に
後世に伝えていきたいと思います。
峯廻攻守
医師 医療法人渓仁会札幌西円山病院 顧問
君は病床に在っても、身罷られる1週間前まで創作意欲を示し,正に芸術家の姿勢を最後まで私達の目に焼き付けているようでした。
今でも思い出すのは、幼馴染数人と「太郎吉小屋」でチャンバラごっこで楽しい時間を過ごした事や、図工の時間では君の絵は小学生の絵ではなく、既に画家の作品で有った事、鮮明に私の脳裏に焼き付いています。その為、君の作品がニューヨーク近代美術館に展示されたニュースに驚く事もなく当然と受け止めて居りました。札幌に移住後、君の或イベントの終了後に私の行きつけの寿司店で、長いブランクを埋めるように旧交を温めました。その時君が書いてくれたサインは今も店内の壁の一角に飾られています。人生の最終コースに、私が勤務する病院へ入院し、再会を果たせて幾許かの役に立てた事は悲しみと喜びの綯交ぜ状態でした。
私がそちらへ行くまで暫し“またね!”
田川正毅
東海大学 教授
滝川や旭川のアート塾、そして札幌で、学生たちにも大切な時間を頂きました。RAP(ルーラルアートプログラム)での発表や合宿も、忘れられない思い出です。「デザインとアートは、本当は一緒なんだよね」と静かに語られたことも、深く心に残りました。和洋女子大学での仕事も作品集に載せて頂き、この場を借りて心より感謝いたします。天国から引き続き、私たちを見守ってください。
下村憲一
私が五十嵐さんとお会いしたのは50年前、東京青山の事務所に伺った時でした。当時五十嵐さんは新進気鋭のグラフィックデザイナーで、私は竹山実設計事務所に入りたての頃でした。作品集編集の打合せの最中に、壁にかけられたポスター原画を見て、その立体的かつ斬新な文字デザインに見入ってしまったことを思い出します。
その後お互いに北海道出身というご縁もあり、初めて札幌で個展を開く時にお手伝いをして、そのお礼にいただいたシルク作品は、今でも私の自宅の壁を飾っています。
サントリーホール
五十嵐様には、サントリーホールのモニュメント「響」を制作していただきました。
エントランス前に金色に輝くモニュメント「響」は、サントリーホールのランドマークとして、1986年の開館以来人々に深く親しまれています。
「音楽を通じて人と人が響きあう」というコンセプトを、素晴らしい作品で表現していただきました。
今後もサントリーホールと共に、モニュメント「響」が人々に愛され続けることを願っております。
サントリーホール
佐々木英理
会社員・設計
昨年お誕生日会で初めてお目にかかったときは、
まだまだ作りたいものがある、と目の奥に輝きをもってお話しされていたので、とても驚きました。
デザインとアート、世界が出すことの出来ない答えに先生は1人、立ち向かわれた。
多くの同士を携えて。
五十嵐先生は多摩美術大学、野口観光と、常に私の先をいってくださっていた方でした。
これからも北海道・日本が誇る偉大なデザイナーであり芸術家の五十嵐先生の作品を際立たせ、美しさを維持できるよう、一生懸命ものづくりをしていきます。
日本と北海道の底上げをありがとうございます。
きっと天国で新しい作品作りに想像を膨らませてらっしゃることでしょう。
見守って下さいこれからも。
心から大きな愛を。
仲世古佳伸
アートディレクター
五十嵐威暢さま
昨年の10月にvoid+の個展でお会いしたときが、お別れになってしまいました。
会場には、僕が勤務していた時代のグラフィック作品が展示されていて、懐かしさと、あの時代の速度が、変わらずに視覚を刺激してきました。
五十嵐さんの作品に見ることの出来る、静謐な時間の奥には、様々な音や流れが交錯しているのだと思います。自然であり、都会であり、伝統であり、現代であり、五十嵐さんの奏でる音色には、遠くを見つめて起立する、人間の正しさがあるように感じるのです。
彫刻家になってからの五十嵐さんの表現は、自由に、透明で無心に空を舞う、風のようでした。
風になった五十嵐さんへ、お話ししたいこと、お聞きしたいことが沢山ありましたが、とても残念です。一度だけ対談をさせて頂いたことを、昨日のことのように思い出します。
本当に、ありがとうございました。
仲世古佳伸
赤坂真一郎
穏やかにお話しされる五十嵐先生の声が思い出されます。滝川のGalleryCOYA立ち上げの際には、厳しくも優しいアドバイスを多数頂戴し、クリエイターとしてあるべき姿を教わった気がします。駅で、公園で、美術館で、五十嵐さんの作品を見るたびにその声を思い出し、ものづくりに携わる自分を律してゆきたいと思います。ありがとうございました。
西川 恵
(公財)日本交通文化協会 常任理事
五十嵐威暢先生とは昨年夏の北海道で、「傘寿を祝う会」で2日間ご一緒したのが最後になりました。パーティーの最後、先生がプレゼントされた中折れ帽をかぶっておどけられた姿は目に焼き付いています。お元気で帽子を被られていたら、帽子がますますフィットして、味わい深い雰囲気を醸し出されたのではないかと思い、残念でなりません。
拙宅の居間の壁に、北海道で買い求めた先生の作品が上品なたたずまいを見せています。
来客は必ずそこに目がいくようで、誰の作品かと尋ねます。
私が財団に関わって間もないころ、先生にパブリックアートをテーマにインタビューをお願いしました。忘れられない言葉があります。日本のアーティストに足りないと思われるものは何でしょう、との質問にこう答えられました。
「アーティストを売り込むコミュニケーション能力です。日本がアーティストとその作品を売り込む力をインフラとして持っていたら、英国のようにアーティストを超一流にして国を挙げて支援することになる。どうして資源のない日本がやらないのか。実現すればすごい外貨獲得源となるでしょう。日本ではアートをビジネスやおカネに絡ませるのはピュアじゃないと頭からはねつけるけど、たとえば村上隆のパブリックアートが日本のどこにもないというのは信じられない話です。好き嫌いでなく、世界中にファンがいるのに、当の日本が何もしないというのは信じられない」
ご関心のある方は日本交通文化協会のサイトで読めます。
https://jptca.org/interview/20151014-15917/
山縣美穂子
はじめて五十嵐さんご夫妻にお会いしたのは、1980年銀座のナガセフォトサロンでした。友人の紹介で、面識のない私の個展にいらしてくださったのです。
優しいお人柄に堅苦しさは似合わない気がして、つい「五十嵐さん」とお呼びしてしまいます。富美子さんとはいつも二人三脚でした。
後に、サンタモニカのお宅でコンクリートのアルファベット彫刻作品の写真を撮らせていただき、木の彫刻を始められた初期のL.A.での個展にうかがいました。
2018年稲穂が黄金に色づいた秋、かぜのびを訪れ、美しい自然が五十嵐さんと作品を生み出すアトリエにぴったりの環境だとの印象を受けました。そして札幌芸術の森美術館での「五十嵐威暢の世界」を感受しました。
2019年、紀尾井町でテラコッタの作品を鑑賞し、2023年には金沢で五十嵐威暢アーカイブのオープニング、2024年の傘寿を祝う会では五十嵐さんを敬愛なさる多くの方々とお会いしました。これらの接点は、貴重で大切な思い出です。
五十嵐さんの「がむしゃら」ではなく、素直で楽しい創作への姿勢と生き方から学び、作品を楽しみながら気持ちが楽になるのは、他の芸術家達からは感じたことのない五十嵐さん特有のことです。お知り合いになれたことは本当に幸運でした。
五十嵐さんに感謝しつつ思うのは、こちらの文です。
His life was well-lived.
He was a gift who keeps giving.
金田享子
私にとって五十嵐さんは、千葉大学で貴重な講義をしてくださった恩師として、いつまでも変わらず「五十嵐先生」です。
学生時代、青山の五十嵐威暢デザイン事務所を見学させていただいた際は、ちょうど3Dアルファベットの全盛期。ロットリングを駆使したポスターやカレンダーシリーズを、ラフスケッチや下絵の段階から拝見できたことは、今も忘れられない貴重な経験でした。
その後、どのようなご縁だったのか今となっては定かではありませんが、転職先の会社で、ホンダ青山ビルのサイン計画に関わらせていただきました。事務所の早瀬さんのもと、先生とご一緒できたことを光栄に思います。1985年に竣工した青山一丁目交差点に建つ真っ白なホンダ本社ビルも、40年を経て解体されることが決まったと聞き、時の流れを感じています。
当時、デザインワークの多くは手描きが主流でしたが、Macの登場により手法が大きく変わる転換期を迎えていました。そんな中、五十嵐先生のお誘いで、UCLAの「Macintosh Design Work Extension」に参加させていただいたことも、忘れられない思い出です。約2週間、マウスの使い方から始め、各種ソフトの操作を学びながら、ロサンゼル周辺のデザインファームを先生のご案内で訪ね歩いた日々が、今も心に残っています。
彫刻家としてのご活躍が増えた1990年代以降、展覧会には折々伺いましたが、北海道での様々なご活動にはとうとう足を運ぶことができないまま、お別れの時を迎えてしまいました。
大学での授業では、課題やレポートといったものはありませんでしたが、先生が手がけられたプロジェクトや、UCLA時代のご経験などを物静かに語られるその姿が、今も印象に残っています。振り返れば、五十嵐先生と先生の作品に出会えたことが、私の仕事の通奏低音として、ずっと流れ続けているように思います。
五十嵐先生、本当にありがとうございました。
そして、北の遠くて高い空から、これからもデザインとアートを志す者たちに、あたたかい眼差しを送り続けてください。
臼田 捷治
編集者・ライター
ちょっと烏滸(おこ)がましいが、五十嵐威暢さんと私は学年が同じだった。五十嵐さんは1944年3月のお生まれ。私は43年7月。同世代である。
五十嵐さんは後年、学長を務めることになる多摩美術大学デザイン科卒だが、勝井三雄さんや清原悦志さんらを育てたことで知られる東京教育大学の教授・高橋正人さんの私塾、ヴィジュアルデザイン研究所にも通っている。私も同様に社会人になってから同研究所の夜学、デザイン理論科で学んだ。同科に講師で来ていた小池光三さんの講義を聞くことがいちばんの目的だった。小池さんはモダニズムの視点にたってタイポグラフィ史を究めた方だった。その初めての著作『印刷デザイン』(ダヴィッド社)がバイブルのような存在であったことは、奇しくも五十嵐さんと私の共通点である。
五十嵐さんとの個人的な繋がりは、私が関わっていたデザイン関連誌でサミットストアの「視環境デザイン」について紹介せていただいたのが最初。C.I.S.(コーポレイトアイデンティティ・システム)導入とトータルデザイン作業によって、グラフィックデザインの新しい局面を切り拓く五十嵐さん初期代表作のひとつとなった。1978年のことだった。
その後、五十嵐さんがアメリカで彫刻家としての活動を開始するなどの長きにわたる中断があったが、2011年に思いがけないご連絡があった。主宰する太郎吉蔵デザイン会議の公式レポーター役の依頼だった。前年に刊行した拙著『杉浦康平のデザイン』(平凡社新書)を読んでくださり、感銘したからとのこと。第4回会議以降、5年にわたって執筆の機会をいただくとともに、五十嵐さんの企画力と会議自体の意義の深さに感動したのだった。
さらに2016年に竹尾さんの竹尾アーカイヴズから刊行された浩瀚な作品集であり、並びない偉業を集成する『五十嵐威暢』でも執筆の機会をいただいた。じつに光栄だった。非力ではあるが、五十嵐さんの期待に応えられたように自負している。同書の周到なアートディレクションは永原康史さん。こちらも素晴らしい出来栄えである。惜しむらくは非売の限定版であること。ご覧になっていない方が少なくないだろう。機会があればぜひお目通しいただきたい。
まさしく北の大地のように広大な五十嵐さんの作品世界。これまで折に触れて拝見してきた。お生まれの滝川市内の他、新十津川町「かぜのび」や札幌駅周辺はもとより都内の各所で。もっとも機会の多いのは、日本グラフィックデザイナー協会の入っている六本木・東京ミッドタウンタワー正面入口の「予感の海へ」。対峙するとその凛とした佇まいにいつも襟を正される。五十嵐さんは永遠(とわ)の旅たちをされたが、これからも同作との対話を通して稀代のクリエーターを偲ぶ縁(よすが)としたいと切に思う。
お付き合いはこのように約半世紀に及ぶが、五十嵐さんが感情を露わにすることなどこれまで一度たりとも見たことがなかった。勿体ぶるようなこととも無縁の生涯だった。少年期にご母堂から「謙虚に」と何度も教示されてきたという。卓越した偉才はその教えを大切に護り抜いた、正真正銘の大人(たいじん)だった。
身に余るご高配をたまわったことに感謝いたしますとともに、それでは終(つい)の住処(すみか)でどうか安らかにお眠り下さいますよう。
古谷美峰子
鋭い眼力や言葉の時もありましたが、五十嵐さんは優しい眼差しと柔らかな話し方で世界基準の体験や情報を軽やかに語り、多くの人との出会いをもたらしてくれました。
「一度会わせたい」と五十嵐さんとのお仕事も多いM氏からの言葉に「是非!」と飛びつき、やっと作品制作依頼の機会をつかみ、東京のオフィスでお目にかかった25年以上前に得た五十嵐さんとのご縁は、その仕事での何十年振りかの来道、滝川の旧友の方々との再会、「五十嵐アート塾」や「A.C.T.」の発足、「ニョキニョキ」の制作、JRタワーの数多くの仕事と次々に繋がりました。ロサンゼルス、永住予定だった米国から帰国後の秋谷、京都での制作滞在期間、最後に戻られた北海道の札幌・新十津川のご自宅やアトリエへの訪問。そして個展や展覧会。楽しく心躍ったこのご縁に深く感謝します。
山本 猛
五十嵐威暢様のご逝去に接し、心よりお悔やみ申し上げます。
五十嵐さんは、いつも真摯に耳を傾けてくださり、惜しみなく大切なアドバイスをくださいました。そのひとつひとつの言葉には、長年のご経験と深い洞察が込められていて、私にとっては多くの気づきを得られる、貴重な時間となっていました。
お忙しいなかでも、どなたに対しても変わらぬ姿勢で向き合い、どんな質問にも丁寧に応えてくださるその姿には、心からの尊敬と感謝の気持ちを抱いていました。穏やかな語り口とあたたかなまなざしに、何度も励まされ、勇気づけられたことを思い出します。
五十嵐さんが残してくださった言葉や生き方は、これからも私たちの心のなかに生き続け、迷ったときや立ち止まったときに、そっと支えてくれるように思います。
これまでのご厚意に心より感謝申し上げます。どうか安らかにお休みください。
高校の同級生
高校の同級生です。
五十嵐威暢は高校時代「あらし」と呼ばれていました。担任の国語の教師が勝手につけたものです。
その「あらし」は、二年になると「デザイナーになるか?建築家になるか?」
と、盛んに外人の名を叫んでいました。ポール〇〇とか、レイモンド〇〇とか。
のんびり坊ちゃんばかりの付属高校でした…。一人だけ「大人=社会人」がいるようでした。
しかし結局彼は、二刀流(デザイナーと建築家)を自分流に実現して世界に飛んでいきました。
友人として誇らしいのは、何といっても「自力」で駆け上がっていった、その「意志力」です。
そして全力で駆け抜けました。完走しました。
さすがに後半は、伴走者の方々のお力添えによるものでしょう。奥様をはじめ、近しい方々に心から哀悼のことばを捧げたいと思います。
「暢」は、のんき、と入力すると一発ででてきます。闘争=嵐、成就=威を越えたのでしょうか…寒いから温かい「北のふるさと」で、しばらくはのんびりしてほしいと思います。
みつえだふみこ
コピーライター
さりげなく板についたレディファーストな振る舞いはアメリカ仕込みでしょうか。エレベーターやお店の扉の前ではもちろん、車に同乗するときも優雅な動きでドアを開けてくださりもしました。そのたびに少しドキドキしながら「ほわっ♡」としたものです。高名なアーティストは、おだやかなジェントルマンでもありました。
はじめてお会いしたのは2006年の1月。取材で伺った横須賀市秋谷のアトリエには新作「こもれび」が飾られており、五十嵐さんを待つ間しばし見惚れていました。「気持ちが凪いでやさしさに包まれる感覚」というのがそのときの印象で、LAから帰国したばかりの“世界的彫刻家”へのインタビューもコワくないゾ、と緊張の糸がほぐれたのでした。名刺をお渡しすると「ほう、ふみこさんていうんだ。でもふみこって呼べないな、うちの奥さんも富美子っていうんだよ、ハハハ」。なんて、ほがらかな。このときが、五十嵐さんが見せてくださったお茶目第一弾だったと記憶しています。
その後も仕事を通じてのおつきあいや五十嵐ご夫妻と私たち夫婦での食事会などご縁が続き、多摩美術大学の学長を退任されて札幌へ移住する際は、五十嵐さんからあるご提案をいただきました。その頃、私たちは家を建てるための土地を探していたこともあり、「僕のアトリエになるような小屋をその敷地内に併設してもらえないだろうか」と。雪国でのマンション暮らしを決めていた五十嵐さんは、創作のために出かけていく場が必要だとおっしゃるのです。
関東圏と比べいくら北海道の敷地が広いとはいえ、それはムリー!と内心思ったのはいうまでもありません。ところがその1ヶ月後、札幌市内の隅っこに川と森に囲まれた自然豊かな土地が売りに出ているではありませんか。広大な上に手の届く価格。5年も土地探しに苦労した私たちはびっくりです。さっそく現地へご案内すると、五十嵐さんも富美子さんもとても気に入ってくださいました。奇跡は起こるものです。いや、起こす人がいるということでしょう。
新十津川の五十嵐威暢美術館「かぜのび」にちなんで、「もりのび」と呼ばれるようになったアトリエはご自宅のマンションから車で30分の距離。建築家の夫・まんぼさんに五十嵐さんがリクエストしたのは白い壁と高い天井、この2点でした。設計段階で図面や模型をお見せすると「いいね」と喜んでくださり、あっけないくらい修正や追加注文もありません。私が仕事で書いたテキストをお送りした際も、たいていの場合「気に入ってます」と短くほっとするような返信をくださるのでした。
創作で迷わないといつもおっしゃっていた五十嵐さん。誰かに何かを依頼するとき、その「誰か」を決めた時点でものごとの大半がご自身のなかで完結しているのでは、というのが個人的な感想です。その揺るぎなさ、潔さ、信頼が相手にのびのびと(緊張感をもって)力を発揮させるのだと思います。
ものを見極める眼差しは鋭いのに、笑うときは口角をきゅっと上げて子どものように楽しそう。それが、私が真っ先に思い浮かべる五十嵐威暢さんです。富美子さんやお仲間とわが家のテーブルを囲んだ時間も宝物のような思い出。私の仕事場にはいくつかの五十嵐作品があり、目が合うたびあのやわらかな笑い声がこだまします。
小菅真千子
風のアトリエ
「悩みがあるから、生きたいって思える。」
あの日、五十嵐先生のその一言で、
私の悩みは、一瞬にして楽しみに変わりました。
先生のまっすぐな眼差しの先には、
“楽しくなるよ”というクリエイションがいつもありました。
「空知のデザイナーにならないか」という
私にとっては未知数の人生も、
先生には“楽しくなるよ”という未来が見えていたんだと思います。
「ありがとうございました」という言葉では足りない、
どんな言葉を尽くしても足りない感謝の想いでいっぱいです。
先生が見せてくださった楽しむ姿こそ、
永遠に生き続ける私の宝ものです。
宮崎耕輔
株式会社竹尾 アドバイザリースタッフ
学生時代、五十嵐先生の『デザインすること、考えること』という本に出会いました。
当時武蔵野美術大学の工芸工業デザイン学科にてID(インダストリアルデザイン)を学んでいました。
IDを学びながらもその分野以外をあまり知らずこのままで良いのか疑問がありました。
五十嵐先生の本を読み、デザインやその姿勢がさまざまな視点で簡潔に書かれていました。
当時、この本を読んで感銘を受け、より広くデザインの世界を眺めてよいことを教えてもらいました。
その後社会人5年目に株式会社竹尾に入社しました。
遠い存在であった「五十嵐威暢」とも接点があり、
いつかお会いできるかもしれないとワクワクしておりました。
最初の名刺交換は大変緊張しました。
そして竹尾ポスターコレクション、竹尾アーカイヴズなどを通じて
五十嵐先生とお話をする機会も多々増えていきました。
いつも穏やかに接していただき『デザインすること、考えること』を
肌で感じることができました。
五十嵐先生にいつかこのことをお話ししたいと思いながらも、
恥ずかしさがありお伝えすことはできませんでした。
学生時代に五十嵐先生の本に出会い、ご縁あり竹尾でお仕事することもできました。
竹尾アーカイヴズには五十嵐先生の作品も多くございます。
それらに触れながら『デザインすること、考えること』を
体感できることに感謝申し上げます。
五十嵐先生、ありがとうございます。
岩井達弥
照明デザイナー
このたびはご連絡が大変遅くなりましたこと、心よりお詫び申し上げます。
最後に、金沢工業大学五十嵐威暢アーカイブのお仕事をご一緒させていただけたことを、大変光栄に思っております。
私たちの美術館照明としては常識外れとも言える提案を、真摯に受け入れてくださったこと、深く感謝申し上げます。
お目にかかるたび、優しく微笑んで握手をしてくださったことが、今でも心に残っています。
五十嵐さんの言葉をまとめた『はじまりの風』には、多くの教えと勇気をいただきました。
もっとたくさんの時間をご一緒させていただきたかったという思いが募りますが、心よりご冥福をお祈り申し上げます。
吉岡恭子
株式会社アートココ 代表取締役
五十嵐先生。
【こもれびのカケラ】ワークショップを初めて行った病院物件から丸12年が経ちました。
アートを通して、立場を超えて繋がることや、
年齢性別を問わず 「皆がワクワクすること」のエネルギーがどれほど大きなものなのかを
実感した貴重な経験だったと振り返っています。
人々を緩やかに「楽しい♪」に巻き込んでいく・・・
自分の仕事の仕方に新しい付加価値を付けることを
本気で取り組み始めたきっかけをいただきました。
先生、本当にありがとうございました。
金道泰幸
湯の浜ホテル 代表取締役
五十嵐威暢さんには、私の人生の節目に、かけがえのないご縁をいただきました。
2011年、家業を継ぐため地元・函館へ戻ったばかりで、これからの道に迷いを感じていた私に、
太郎吉蔵デザイン会議で、たくさんの学びと人との繋がりを導いてくださいました。
当時、会議のスピーカーとして話を終えた私に、五十嵐さんは「あなたが真剣に話したから、みんなも真剣に応えてくれた。」と声をかけてくださいました。
何事も真剣に取り組めば、必ず応えてくれる人がいると信じて、これからも自分の道を歩み続けます。
本当に、ありがとうございました。
どうか安らかにお休みください。
門前の小僧たち
このお題を頂戴してから、何を書いていいのやら、ずっと考えています。
長距離通勤の運転しながら、メソメソしちゃっています。
筆が進まず、とっ散らかって、ぐだぐだです。
五十嵐さんのことを、「五十嵐さん」と呼ぶ方と「先生」と呼ぶ方がいて、どうお呼びしたらいいんだろうって迷っていました。
デザイン会議に聴衆として初めてお邪魔した日、頑張ってご挨拶のお声がけすると、耳を傾けてくださったこと。五十嵐さんは普通でした。もちろんわたしは緊張していました。「僕のアシスタントを紹介しよう。」と羽田さんをご紹介くださいました。
その年の冬、紙袋ランターンフェスティバルを知って訪れ、厳寒の商店街の道路に無数のランターンが静かに灯っている光景に、わたしは心奪われました。
かぜのびでの思い出は尽きません。
制作されている日もご不在の日も、SさんやMちゃんが迎えてくださり、わたしたちは、お掃除したり草取りしたり。子ども達はお昼におにぎりを食べた後は、キャッチボールや水鉄砲、カナチョロ捕まえたり、平日はできない遊びをたっぷり体験できました。
娘が摘んできた野の花をご覧になって優しく微笑んでくださって以来、彼女は、使命か?というくらい熱心に、毎回、季節の野の花を探してきては飾っていました。息子は学校の図工の時間に田んぼに映る夕陽を描いていました。
ランチタイムのおしゃべり。少年時代に江部乙の一木先生の所へ通ったことや、マッチ箱にカメを入れ胸ポケットに忍ばせ連れ歩いた末にお姉さんに見せて驚かせた話から、メキシコでフェンダーミラーが売られていた笑い話、ウォーホル氏と握手したらお豆腐みたいな感触だったとか、話題の幅が広くてびっくり。いつも静かにゴキゲンで誰に対しても態度を変えず普通だけれど、心をくすぐる話題を選んでくださいました。
楽しいおやつの時間。実家で採れたブドウをお持ちしたら「これは特別なものなの?」とおっしゃるので、いいえ放ったらかしで育ちましたと言うと笑って召し上がり。干し芋やマシュマロを焼いたとき、焚き火ピットが欲しいとか、近所の方々がお花見に来るようになったらいいとか、菜園とかサクランボみたいな果樹も植えたら?いやそれではクマさん来るよと言い合っているのを、ニコニコ聞いていらっしゃいました。
新十津川小学校にランターン作りの出前授業にもご一緒しましたね。掲示物や、いちねんせいの消防自動車の絵が良くて、普通に喜んでいらっしゃいました。
芳名帳に酒井忠康さんのお名前を発見して驚いたわたしは慌ててご報告。「酒井さん?あぁ、本当だ。来てくださってたんだ。いつだったか、ご馳走になったきり、お会いしてないなぁ。」と、さらっと普通におっしゃって。
芸術の森の会期中に、わたしの父が亡くなり一時黙って失礼し、後から報告したら「言ってくれたら良かったのに」と普通にお優しくて。
コロナ自粛が緩和されたころ、かぜのびの玄関で距離をとってほんの少し顔を出すと、「身内にも会えなくてね」と。
実際に会うこと、集うことを大切にされていたので、行動制限はことさら残念だったことでしょう。
ある年の春、「明日、音威子府に行くんだけど?」とお誘いくださり、遠すぎて叶えていなかった訪問のきっかけをくださいました。子どもたちと、帰りにお蕎麦食べようねと言いながら駅でお待ちしていると、改札から出てきた五十嵐さんは「本当にいた!」と大ウケしてくださり「ご馳走しよう。」と朝から4人で駅蕎麦を食べたのは、嘘のようなホントの話です。
嘘のようなホントの話はもう一つ。わたしなんかは滅多に行かない東京での偶然。21_21に五十嵐さんご夫妻がいらして、三宅さんとの奇跡の遭遇に立ち会えたこと。あの時「会わなきゃと思っていたんだけど、やっと会えましたね。」と喜び合っていましたが、そちらでゆっくり再会されましたか?
一度だけ思い切って、ご講演をと相談したところ「制作に集中したいんだ。他のことに時間を割くのがもったいなくて。」とあっさり断られました。なるほど本当に普通に真っ直ぐシンプル。以後は邪魔しないように、そーっと掃除だけに徹しました。
またある時、五十嵐さんのデザインと知らずに「あのベンチのような低い棚、ホントによくできてると思うんです。」って杉山さんに言ったら、横から「ありがとうございます」ってニンマリされて。知らなくて恥ずかしくて慌てるわたし。
かぜのびのイベントの準備も体験させてくださり、答えではなくヒントをたくさんくださいました。あの時は、嬉しい反面、決して嫌ではなかったけれどなんでわたし?と戸惑っていました。白にしようか、墨にしようかも。
そいうえば五十嵐さんは「先生」もされていたと今さら思い、どこまでも自分が鈍くて本当に申し訳なく思います。
デザイン会議の感想文を書きあぐねた末、締切も間に合わなかったけれど、精一杯削いで提出したら、ゴキゲンで褒めてくださったのが一番の宝物の思い出かもしれません。(なのにまた、ぐだぐだになっています。)
わたしはなるべく普通を装っていましたが、いつも緊張していていました。
カメラを向けられず、一緒に写った写真もほとんどありません。
お尋ねしたいこともいっぱいあったけれど、言い出せませんでした。
バリ取り中の杉山さんとわたしの会話は、そんなにおかしかったですか?
「ゆ・ふ・る・じ」って、なんですか?
まだまだ知らないことだらけですし、解らないこともたくさんありますが、知りたいことや解りたいことはこれからも出てくるはずです。
直接お尋ねすることは叶わなくなったので、残してくださったたくさんのテキストを頼りにします。どんくさい劣等生を、あの笑顔で、お空から見ていてくださいね。
木村英憲
教員 愛知学院大学名誉教授
岡崎に住む木村英憲と申します。私は五十嵐威暢さんより4歳年下で、福井市から北海道滝川市に移住した五十嵐太郎吉を祖父に持つ孫です。威暢さんのお父さまと私の父は異母兄弟という関係ですが、威暢さんと私は「孫同士」という間柄にあたります。
2022年8月17日、新十津川にある威暢さんの美術館で、初めてお目にかかりました。初対面とは思えないほど打ち解けた雰囲気の中で、子ども時代のことや、私も7年ほどアメリカに留学していたことから、異文化体験についても楽しくお話しさせていただきました。
作品を拝見しながら、50代で亡くなった弟には絵の才能がありましたが、それはもしかすると、同じく太郎吉さんの血を引く者としてのつながりがあったのかもしれない──そんなふうに感じたことを、ふと思い出します。
その温かな人柄に触れ、数年に一度くらいのペースで、ゆっくりと交流を深めていきたいと思っておりました。そんな矢先の訃報に、言葉もありません。威暢さんのご冥福を、心よりお祈り申し上げます。
五十嵐さんとの思い出、印象に残っている言葉、五十嵐さんの素敵な一面、心に残っている出来事などをお寄せください。
五十嵐さんご本人は他界されましたが、多くの皆さまと五十嵐さんの足跡を共有できれば幸いです。
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